あけましておめでとうございますー多様性と平和ー

2018年が明けましたね。おめでとうございます。

年末に読み始めた長編小説が大晦日の入浴中に読み終わり、今年は気持ちよく新年を迎えることができました。

 

今日はお天気が良いのでお参りに出かけたところ、境内は長蛇の列ですっかり冷え冷え。

ちょっと暖まろうよ、と近くのマックに入ったら、こちらも激混み。

明らかに人手不足なのに、スタッフは倍速で働く人と、おしゃべりしながらのんびり作業する人に分かれていて、倍速チームは疲労困憊のご様子。

おい、そこの東南アジア顔の君。もう少し周りを見て動け。先輩の出してるサインに気づけー!

と、教えてあげたい感じでしたけど「空気を読む文化」は日本固有のもの。

これから日本が外国人と肩を並べて働く国になったら、「空気読み」を新参者の彼らに求めるよりも、日本人がコミュニケーション力を上げて、上手くニーズを伝えられるようになる方が、世の中はうまく回るかもしれませんね。

 

私は中学高校時代、関東近県を中心に日本各地からやって来た生徒と、多数の帰国子女が集まる学校にいたんですけど、DNA上は同じ日本人でも、育った環境が違えばまるで別の国の人でした。

隣の席に欧米帰りの子が来るのと、インドネシアやタイ、マレーシア帰りの子が来るのでは、コミュニケーションも常識も、阿吽の呼吸が通じる確率もぜんぜん違いましたし、海外を知らない日本人同士でも、都会育ちの子と田舎で駆け回っていた子では「だよね~」と共感しあえる範囲が違う。

私は平凡な田舎の子だったので、主張の強い人が多すぎていつまでもまとまらない学級会や、いちいち自分の考えを説明しなければいけないコミュニケーションに面喰いましたけど、中一の終わり頃にはある種の諦観と共に「人はそれぞれ違う。みんな同じなんてありえないのだ」と、思うようになりました。

あれは衝撃的なカルチャーショックでした。

でも、社会に出てから何よりも役に立った「一生の宝物な経験」でもありました。

同級生の多様性に慣れた私は「同じである」ことを重要視しなくなったし、人と関わる時に属性より、共有できる感覚があるかどうかを意識するようになり、それによって「属性の縛り」から自由になったからです。

そうだ。国際交流好きな母のおかげで、布教活動で来日した米国ユタ州のモルモン教徒のお兄ちゃんたちが、入れ替わり立ち替わり自宅に遊びに来ていたことも大きかったかも。

「カフェイン入りの飲み物NG」というモルモン教の戒律を守りながらも、日本茶を飲んでみたくてウズウズしている彼らは、自分たちと同じく好奇心旺盛なティーンエイジャーで、とても礼儀正しくて謙虚なところなどは、クラスで隣に座っていた図々しいアメリカ帰りよりも、ずっと「古き良き日本人」のイメージに近かったです。

そんなことがあって、人を定義するのは国籍や地域、性別、学歴などではなく「何を(どんな観念を)信じているか」だと思うようになりました。

そして、その人が信じていることは、外見からは分からない。

じっくり話したり、しばらく一緒に過ごしてみないと分からないですよね。

だから、やっぱり面倒くさくても、対人関係はていねいにする方がいいと思うのです。

咲いたばかりのラナンキュラスの花をそっと触るように、ハムスターのような臆病で小さい生き物と仲良くなる時のように、人間同士ももう少していねいに、相手への尊敬を持って関わったら、世界はもっと平和になると思います。

今年は私もそんな風に人と関わっていきたいし、そういう人を大事にしていこう。

元旦の激混みのマックの列に並びながら、そう思いました。

今年もよろしくお願いいたします。

 

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