中高時代、同級生に「天才」と呼ばれている男子がいました。
彼は科学部に在籍する理数系の天才で成績は常に学年トップ。数式の展開力とか、物理の発想力がずば抜けていて、先生も感心するレベル。
授業は成績別クラスゆえ、彼と同じクラスで数学の授業を受けたことがない私は、そのすごさを噂に伝え聞くのみでしたが、飛び級制度があったら、きっと飛び級していたと思う。
ちなみに彼のお父さんは、有名な物理学者です。恐るべしDNA。カエルの子はカエルね。
ところが、彼にも弱点がありました。それはコミュニケーション。
彼はとにかく声が小さい。耳を近づけても聞き取れないくらい、文字通り蚊の鳴くような声。
さらに、too much にシャイで、意見を求められても恥ずかしそうに微笑むだけで、めったにごく限られた友人にしか自分の意見を言わない。スポーツも苦手。
私は中学入試のディスカッション試験の時、彼と同じグループでしたが、4人でディスカッションする数十分の間に、彼は困ったような顔をするだけで、ついに一言もしゃべらなかった!
理数系が苦手な私にとって、そのY君は遠く離れた所にいる存在で、在学中もちらっと喋ったことしかありません。
ほんと、ちょこっとです……でも、すぐ分かりましたよ。
ああ、この人が考えていることは、とても抽象的で、何歩も先を読む思考なんだ。
それをそのまま話すから凡人は「?」となって、なかなか理解されないし、本人も理解されないフラストレーションで、ますます話すのが億劫になるから、話をする相手を選ぶんだ、と。
そう。彼はやはり「天才」だったのですよ。
中学入試時の「声がデカい者が勝つ」的な幼稚なディスカッションとか、次元が低すぎて、どう話に加わったらいいか、分からなかったんだろうな。
私のいた学校に「みんな同じでなければいけない」という暗黙のルールはなかったし、成績の良しあしに関わらず我が道を行く子が多かったので、Y君の寡黙さもむしろ「天才の沈黙」として受け止められ、Y君に物理を教えていただける栄誉に浴した子は羨ましがられました。
紙の上に書かれている2次元の「物理の問題」が「4次元」で見えてくるんだそうで(物理音痴的発言? 笑)。
かといってY君は偉そうでもなく、むしろ誠実な人だったため、高校の頃には、なんていうか、こう……絶滅危惧種の貴重な動物……的な扱いになってた(笑)。
しかし、昨今のいじめ問題の報道を見ていると、地元の公立校に通っていたらY君のような子は生きにくかったかもしれないな、と思います。
私は日本のバラエティ番組が好きではなく、ほとんど見ないのですが、その理由はみんなして同じテンポで同じような意見を言いあって、その流れに乗れない人をからかうワンパターンがつまらないと思うから。
みんなで似たりよったりの意見を言い合って笑うって、緊張をほぐしたい時や初対面ならちょうどいいけど、それ以上には話が深まらない。飽きないのかな?
学者系だけでなく、アーティストや作家、俳優さんなど、自分の世界があって、それを大事にしているがゆえに閉鎖的な人ってけっこういます。
その閉鎖性は、自分が持っているすごく繊細で貴重なものを、それを理解できない人に踏みにじられないようにするための防御。
それを「コミュニケーション能力が低い」とか「変」と切り捨ててしまうのは、もったいないと思うのです。
「異質」を排除していると、いつまでも「自分が理解できるものだけに囲まれた世界」から出られません。つまり、精神的な成長は止まります。
固く閉じられたカーテンの向こうに広がる、その人の「素晴らしく貴重で美しい世界」を見せていただくには「理解できないもの」に対して、謙虚になる必要があると思うんですよね。
相手が「変」なのではなくて、自分の理解のキャパシティをこえているだけかもしれないと。
自分の世界を広げるためには「異質」って大事。
私は自分にはない優れたところや美点を持っている人は、同じ匂いがする人だろうと、異質だろうと大好きで、その人の思考回路を通して世界を把握したらどんなかんじだろうと、ワクワクします。
おかげさまでいろいろと面白い体験をさせてもらっているし、その人たちから学ぶことが多いのです。
なぜか気になる「異質」は人生を豊かにするカギだと信じてやってきて、今改めて、やっぱそうだわ、とうなづいているところです。
写真:Leo Villareal <Cylinder> ©Amorepacific Museum of Art(APMA)