鬱と絶望と想像力

花粉症の皆さん、いかがお過ごしですか? 今年はキツくないですか?

私の場合、毎日かなりの時間をベランダで過ごす猫が、花粉玉となって部屋に戻ってくるため、掃除機をかけてもかけても、空気清浄機を回し続けてもくしゃみが止まらずツライです。

重層構造のウール100%(猫)への花粉付着率はすごい。毎日お風呂に入れたいけど、それは猫にとって拷問なので我慢してます。

 

さて、重たいタイトルですが、ちょっと書き残しておきたいので書きます。

昨年末、私がこの2、3年ほどはまっていたk-popのアーティストが、鬱で亡くなってしまったことの嘆きをこのブログに書いたのですが、覚えている方いらっしゃいますか?

昨日、そのアーティストが亡くなる直前に制作を終えた新アルバム(死後、今年1月に発売)を購入した際に同封されてきたポスターを、ついに開いたのですよ。

アルバムのメインビジュアルになっていたから、すでに目にしてはいましたが「等身大で見るのは、まだ無理……」と、そのまま放置していたポスターです。

その顔を横に向けて立つ彼を写した写真が……印刷の粗さを差し引いても、とても辛い。

プリントした写真には、被写体のエネルギーがそのまま載りますが、明るいオレンジ色のセーターを着ている彼本人からは、絶望しか伝わってこない。

寒風に干した寒天のようにすっかすかで、生命力というか、エネルギーが全く感じられない。あんなに華やかでパワフルな人だったのに。

心のシャッターが完全に下りていて、この時にはもう未来ではなく、死を見つめていたんだろうと思いました。

どれだけ長い間、一人で絶望の中にいたんだろう?

あまりにもいたたまれなくて、ごめんね、何もしてあげられなくて。辛かったね。こんなによく耐えたね。

と、海の向こうの歴の浅い一ファンという、ものすごく遠い物理的距離を無視して心から謝り、彼の短い人生を労いました。

 

この人の訃報の後、わあわあ嘆いていた私に、同僚を鬱で亡くした友人が「これ、参考になった」と”精神科本”を勧めてくれたので読んだんですけど、鬱病って心の病ではなく「脳の神経伝達物質の異常」による病気なんですね。

ストレスが臨界点を超えれば当然、脳内化学物質のバランスも崩れ、だからこそ、辛抱強くて真面目な人がなりやすい。

それをまるで鬱になった人が「弱い人」のようにみなすのは無知による偏見ですが、実際はそういわれるのが怖くて鬱をカミングアウトできなかったり、回復期に「あいつ鬱だから」とそしられないように頑張り過ぎて、また悪化するケースが多いようです。

私の周りには鬱の人がいなかったから考えたこともなかったけれど、今はそういう「鬱になって弱っている人をさらに追い込む人」はぶん殴りたい。

共感力と想像力の無さから飛ばした軽いジャブが、鬱の人には散弾銃級の破壊力で、そんな打撃が積もり積もって鬱特有の罪悪感や自己否定感が増し、死に至ってしまう場合もあるのだなと、よく分りましたから。

 

話を戻して、その彼は何に絶望していたんだろうと思うと、一番は「自分自身」だった気がします。

人はそれぞれ「魂的にはこれができると満足」という線があって、それは世俗的な成功や人気、財力とは関係がない領域。

彼はその部分があんまり満たされていなくて、この先も満たされる予感がしなくて、自分の魂を幸福にしてあげられない自分、その力がない自分を責め、絶望していたように感じました。

本当は「自分の魂を幸福にしてあげられない自分、その力がない自分」なんて幻想で、誰でも自分を幸せにする力は持っているんだけど、とことん弱っているとそれが見えない。

不満はいろいろあるけど、まあまあ嬉しいこともある、ある意味ではちゃんと成功している「人生」の中に散りばめられた「キラキラした喜び、感謝したい出来事」も見えなくなってしまうらしい。

脳の神経伝達がおかしくなっているから。

それが鬱が「死に至る病」とも言われるゆえんなのではないでしょうか。

 

彼の死は大きく報じられたので、これをきっかけに鬱になっている人、心が弱っている人が安心して快方に向かえる世の中になることを、心から願っています。

 

 

© 2017‐2024 KAORU.